英語コンプレックス

娘から友人の旦那が海外転勤になり子供と自分(娘の友達)もついて行くと聞きました。行先はアメリカだとか・・

私は幼児の頃から外人に興味があり、知りもしない米国人映画俳優のポスターを買うほどでした。英語を学びたくてしょうがない子供でした。彼らが何を話しているのか知りたかったのです。

それが激変したのが学校英語です。中学に入って、教わった英語は私の顎かれていたものと程遠かったのです。英語を綺麗に書く事を要求され、文法を要求され、そして日本人英語を要求されました。私の中学時代の英語成績は5段階で2でも不思議ではない3でした。英語と聞くと憂鬱でした。
そして最終的に覚えたのは英語の成績をよくする為には英語の教科書を日本語訳した本が売っていて、それを丸暗記する事でした。高校時代はそれを試験の前日覚えればいい点がとれました。それでも英語で5はなかったと記憶しています。

私の望んだ英語に触れあえるのは音楽と映画だけでした。それでも英語という言葉は嫌いでした。レコードから流れてくるものは洋楽であり、英語という言葉はありませんでした。

娘の年齢の頃から個人的に英会話を少し学び今までの日本人英語の無駄さがわかりました。TOEICにしても1回受けてなぜに日本人の名前が登場するのかと思っていたらTOEICは日本のテスト問題を考える企業が作った問題であり、これも日本人英語でした。

30なかばで1人でアメリカに行き、いざとなったら英語で会話しないとどうにもならない状況下に自分を置き、自己流英語を学びました。わからなければ、書いて「これなんと発音する?」と聞けばいいだけ、相手も人間で会話すればなんとかなるという事を知りました。
特に外人との交渉は言わないものが悪いという習慣は私には合いました。私の性格にヒットです。文句があるのであれば、相手に直接言い、陰でものを言わないという事、これこそ私のスタイルだと思いました。「お疲れ様」という言葉に違和感をもっていた私は英語では同じような言葉がないという事も私には新鮮でした。日本人はネガティブなのです。

それでも私の英語力のなさには困りましたが。。旅するには難儀はしなくなりました。空港で帰国日を間違え交渉して、チケットを交換してもらった事があります。日本に戻って自分が間違っていた事を知りました。。。
また英語より重要なのは外人文化であり、人種の問題の根深さを知りました。

恐らく私が学んだ日本人英語を教えていたもの達は生の英語は知らなかったのでしょう。今や英語を学びたければYouTubeで見る事もできます。英語新聞は簡単に見る事ができます。

今の英語の授業は変わったと聞きますが、受験英語は日本人英語なのではないかと思います。そもそも親がコンプレックスなのでどうもなりません。

英語を教える前に英語コンプレックスを無くす事が必要な気がします。コンプレックスを無くすには興味を持たせるしかないと思います。

娘曰く、友人の旦那も友人も英語はダメだと言っていました。ダメって拒否反応とコンプレックスが強いという事ではないでしょうか。どんなアメリカ生活がまっているでしょうか?アメリカでは物言わぬものは相手にしないような人達だと私は感じました。

私が娘の年齢は英語を個人的に学び始めた年齢です。私がその旦那であれば、喜んで単身でアメリカに行く事でしょう。

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セキュリティ論文

机を新調したので整理をしていたら情報処理試験の合格証書が出てきました。

情報処理資格受験は、なんとなく勉強せずにどれほどのものだろうと思い受けました。後は稀に頭を使うのがいいのです。合否はどちらもいいのです。

特種情報技術者何歳で取得したのかと思ったら28才だとわかりました。当時の論文をよく覚えています。テーマはセキュリティでした。社内にセキュリティというキーワードで浸透させようとしたのが26才くらいかもしれません。。

当時インターネットなどない時代でしたが、本番データをテスト用と間違えて壊され度々データのリストアーをしていました。これらに悩まされたのでセキュリティという名の本番データ破壊防止を考えたのです。

そういえば当時から指示されて何かするのではなく、自分で勝手に案を作りそれをしていたような記憶があります。。言う事聞かなかったのですね。。社内で最後にプログラミングしたのは25才迄だったのかもしれません。

私はバブル時代の大学生で、ある東証1部の機械製造業の会社に入社しました。コンピュータは毛嫌いするほど嫌いでした。理系だったので技術役員の面接がありました「情報システム部などどうか?」と言われて「絶対に嫌です」というような感じを言ったと思います。こんな暴言をしましたが内定合格の通知が届き、4月に研修が終わり配属決まったら情報システム部でした。私は研究開発部門に配属になるのかと思っていましたが・・。

私はこの会社には非常に恩を感じています。この会社に入らなかった今の私はありません。

配属当時は社内で情報システム部門の必要性を訴え情報システム部(当時はそういう名前ではなかったと思います)を作ったものが部長でした。私はこの人にどう見られたかわかりません。ただいろいろよい事がありました。恐らくはじめは嫌われていたと思いますが・・・。

機械製造業なのでTQCという品質管理が重要でその金のかかる研修に行かせていただいたのもこの部長からの指示です。(他の方が辞退したのかどうか知りません。ただ部内では3人目?だと・・聞いた記憶があります)。私はありがた迷惑だったのですが、まだ20歳代・・だったの歯向かうことなく研修に参加しました。こんな事が2度3度ありました。

あまりも独断的な部長だったので部内で知識の基盤みたいな人が2人いたのですが、2人が相次いて退職したのです。私はなんも聞いていませんが「後は今泉がいるからとか」言ったとか・・私は何も聞いていません、頼る人がいなくなると自分でするしかありません。当時は悲しかったですが、少ししてこの2人が退職した事が私にはよかったとわかりました。。
部長も役員が連れてきた中途採用の部長に変わりました。私はこの中途採用の部長にはめちゃ嫌われてました。私のこの方への態度にも問題ありました。サラリーマンらしく仕事していない事も嫌われた理由です。嫌われても別に放置しておいてくれれば文句はないですが・・。
この会社を退職したのも会社の将来もありましたが、この部長との意見の相違だと思います。この部長から学んだひとつが「根回し」です。この会社が経営不振になりこの人も退職したと風の便りに聞きました。(自らか辞めさせられたのかは知りません)。

セエキュリティシステム構築時、当時IBMの大型汎用機を使っていたのでIBMのSEに聞いてRACFというものを導入しまいた。目的は決まっていました。本番データの保護です。その次にツールです。IBMのSEに聞いても彼らも携わった事がないというので、マニュアルを2,3段ボール分送ってもらいそれを読みました。いくら読んでも理解できないものでした。。
この会社はよく退職するものが多くいて、なおかつ中途採用者が多い会社でした。RACF構築時私の上司の課長は中途採用のものでした。よく「何を何時間にやるんだ」と言われましたが、機能もわかっていないので「何を何時迄にやるなど言えません」と言い返していたのを記憶しています。

3ケ月かもっとマニュアルを読んでいたと思います。(途中いろいろ中断はありましたが・・)構築は独学ですが、1、2週間ほどだったと思います。理解できれば構築は簡単なのです。

私は特種情報処理技術者の論文の課題が偶々セキュリティというのがあったので、それに関して自分の思いを全て書きました。このブログ同様誤字脱字だらけだったと思います。ただその論文には熱意がありました。思いをそこに書いたのです。
発表日の1ヶ月後に合格を知りました。。。大学受験からこの手の資格まで基本勉強などしません。。無意識に勉強していたのかもしれません。ただ資格のこの手は転職時にしか役立たない事は知っています。いくら難しいものでも自分でもっているとなんとも思わないのが私です。

ただセキュリティという言葉を聞かない日がない今でも言える事があります。それは何から何を守るという事を明確にする事、全ては守れないので自らのリソースを明確にしてセキュリティレベルを明確にする事です。私がセキュリティという事を考えていた頃とさほど大きく変わっていません。ただ多くのものが口にするようになり分けわからなくなっていると思います。

私の当時のセキュリティ計画は失敗に終わりました。各課が毎回打合せに出席に出てくるものが違い毎回同じような話をした事、業務的に無理だ!と言われ、私に見方するものなど皆無でした。少なくとも入社当時の部長がいたら変わっていたと思います。

特種情報処理を合格した論文には「上司を巻き込み、上司の協力の元成功した」ような事を書きました。周りの協力が必要です。

今、セキュリティという言葉を聞くと何から何を守る為のものだと思います。そこら明確になっているものなど皆無です。

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